陶器の歴史

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瀬戸焼

瀬戸焼

伝説によれば中国の宋で陶法を学んできた陶祖・加藤四郎左右衛門景正が1242年瀬戸で窯を築いたのが始まりとされていますが、実際には平安時代中期、広久手古窯跡群での灰釉による施釉陶器が始まりです。
一方、平安から鎌倉時代にかけて日宋貿易の興隆によって陶磁器が大量にもたらされました。これまでの国産灰釉では太刀打ちできなくなってきたのです。
この時代のいわゆる古瀬戸の手法は、紐づくりをし、別に挽いた口頸部を付けてから、外部の全体を轆轤で仕上げるやり方です。灰釉や鉄釉を施し、「胎土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す陰花文」「ヘラ・釘・櫛などによって彫りつける画花文」「粘土を器全体に張り付ける貼花文」などで陶器を飾るようになります。志野のさきがけとも思われる長石粉の使用が見られます。
この時代に侘び茶が完成し、唐物から和物の中に美を見いだし茶会を変革させました。
瀬戸の茶壺・茶入れは茶人の鑑賞に十分耐えうる品格まで磨き上げられました。
一方戦国時代の瀬戸は「瀬戸山離散」の言葉通り、瀬戸の地を離れて、美濃などの各地で瀬戸ものが焼かれるようになってきました。この時代には様々な形の瀬戸ものが焼かれ、柳茶碗・灰釉ぐい呑・鉄釉皿・志野碗・瀬戸黒沓茶碗などが古窯から発見されています。

瀬戸焼

一方江戸初期に有田の磁器が急速に発展し、瀬戸の磁器販路は狭まってきました。
江戸後期(1807)、九州で磁法を学んできた加藤民吉が瀬戸に戻り磁器生産を本格化しました。瀬戸では旧来の陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼ぶようになりました。
明治に入り海外にも多く輸出されるようになってきました。
織部のコーヒーセット・ポット・洋皿・陶製玩具・装飾品など、これまでの反動により本業が多く貿易にも使われるようになりました。
戦後日本経済の復興とともに瀬戸の陶磁器も立ち直り国内外で隆盛を迎えました。
今日では「より多く、より安く」の過当競争に終止符を打ち、瀬戸には何でもある特色と瀬戸らしさも生まれてきました。