陶器の歴史

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伊万里焼

伊万里焼

日本で磁器が本格的に焼かれるようになったのは、今から約400年前の豊臣秀吉の朝鮮出兵後の有田(現在の佐賀県有田町)が最初だといわれています。
豊臣秀吉の命令により朝鮮半島に出兵していた鍋島直茂は、多くの陶工をつれて帰りました。陶工たちは有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、窯を築いて磁器を焼いたとされています。
さらに、有田周辺で焼かれた磁器は伊万里津(津とは港の意味です)に運ばれ、現在の伊万里川河口付近から船で積み出されました。伊万里から積み出されたため「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。
現在では、当時の伊万里焼と現代の伊万里市内で焼かれている伊万里焼を区別するため、江戸時代に焼かれたものは「古伊万里」と呼ばれています。

伊万里焼

伊万里焼は寛永年間(1624〜1643)に、まず関西方面へ広まりました。
次に寛文年間(1661〜1671)ごろに伊万里津に来ていた商人によって江戸や関東方面へも広がりました。
国内への流通が盛んになると、伊万里焼は日本国中で使われるようになりました。
武士や公家など一部のお金持ちの人々だけでなく、大部分の人々に磁器の器が広まったことは、日々の暮らしにうるおいと豊かさを感じさせました。
今でも東北や北海道などに、江戸時代に焼かれた伊万里焼の茶碗や皿が数多く残っています。
また、伊万里焼は海外へも輸出されました。
まず、ヨーロッパへは伊万里津から長崎の出島へ向かい、そこのオランダ商館を通じて輸出されたといわれています。以前は、中国の磁器がヨーロッパや東南アジアへ輸出されていました。ところが、350年ほど前に中国の国内が乱れて焼き物作りが十分にできなくなったのです。
そこで中国の磁器に代わって、伊万里焼が盛んに輸出されるようになりました。
当時のヨーロッパでは神秘的な東洋への憧れがあり、部屋を東洋の焼き物で飾ることが王族や貴族などに流行していたようです。