陶器の歴史

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伊賀焼

伊賀焼

伊賀焼の歴史は古く、その起源は今から約1200年前の天平年間(729〜749)、農民が農業に付随して生活雑器を焼いたことに始まるとされています。
伊賀焼は、立地的に大和地方に近かったことにより、永く文化の中心にあり、日本美術の源であった奈良朝の歴史的影響を受け発展しました。そして製陶が専門業に分化し、室町時代末期には太郎太夫・次郎太夫が活躍し、伊賀焼の創始者とされています。
その後、天正12年(1584)、伊賀領主に任じられた筒井定次は古田織部とも親交があり焼き物を奨励し、古伊賀の真髄を具えた雅致ある作品を上野城内の窯などで焼かせました。
それらは、茶壺、水差、茶入、花入等の類でヘラ目の勇壮なものです。定次時代(天正13年〜慶長13年)に作られたものを俗に「筒井伊賀」と呼んでいます。
慶長13年、藤堂高虎が伊賀国主となり、その息子の高次は伊賀焼を奨励しました。この時代の作品を「藤堂伊賀」と呼んでいます。今日、「古伊賀」と呼ぶのは、筒井伊賀と藤堂伊賀を合わせた呼び名です。
なお、寛永年間(1624〜1644)、小堀遠州は茶器の製作を行い、遠州伊賀の名を広めました。
しかし、藤堂家三代、高久の時に白土山の陶土の濫掘防止のため寛文9年(1669)、「御留山の制」が設けられました。このため陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退しました。

伊賀焼

その後、宝暦年間(1751〜1764)、瀬戸の陶工により釉薬の技術がもたらされ復活しました。さらに、明和から文化年間にかけて伊賀藩主は三郷山の陶土を用いて、弥助、定八、久光山久兵衛、得斉などの陶工に雑器、茶器、古伊賀写しなどを造らせ、幾多の名品を輩出しました。
雅陶伊賀は、幾変遷により興亡の歴史を繰り返しましたが、天保(1830〜1844)末頃から丸柱は大衆生活必需品の土鍋・行平・土瓶など厨房具の大量生産に転じ、耐火、耐熱度の高い伊賀陶土の特質がかなり生かされた製品で、好評を博しました。
現在、土鍋、行平等は、伊賀に産する耐熱性の強い粘土を生かし、また伊賀焼独特の味を生かした釉調は、一般に広く好評を博しています。